大判例

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東京高等裁判所 平成5年(ネ)406号 判決

控訴人

株式会社新潮社

右代表者代表取締役

佐藤亮一

控訴人

四方田隆

右両名訴訟代理人弁護士

多賀健次郎

林國男

鳥飼重和

舟木亮一

被控訴人

三浦和義

主文

原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。

右部分につき被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じ被控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人らは主文と同旨の判決を求めた。

二  被控訴人は口頭弁論期日に出頭せず、かつ第一回口頭弁論期日までになんらの準備書面を提出しなかった。

第二  当事者の主張

当事者の事実上並びに法律上の主張の要旨は、控訴人らの当審における主張を次のとおり付加するほかは原判決摘示(原判決中「第二 事案の概要」)のとおりであるからこれを引用する(ただし、原判決書三枚目表二行目の「昭和五八年」を「昭和五六年」に改める。)。

1  被控訴人の社会的評価は、その倫理感、生活歴、犯歴、特異な性格、特に性的傾向の特異性、それに基づく奇矯な行動に鑑みるとき、もともと積極的なものではなく、消極的な評価でしかない。したがって、本件記事を公表したからといって、改めて被控訴人の社会的評価に影響を与えるものではない。

2  本件記事が被控訴人の有する社会的評価を低下させるものであっても、控訴人らには次のとおりの事由があるから、控訴人らが記事を発表したことには違法性も有責性もない。

イ  本件記事は、被控訴人が提起した名誉毀損並びにプライバシー侵害を請求原因とする民事訴訟に対する裁判所の対応、特に「夕刊フジ」訴訟に対する平成三年五月二八日付第二審判決にかかる事実の報道、同事実に基づく論評が主題である。その対象は裁判所ないし判決の有り様であり、被控訴人を直接論評の対象とした記事ではない。

裁判批判はなんぴとといえどもなし得る国民の権利である。その方法、程度が公正であり、被控訴人を直接論評の対象としていない場合は、仮に被控訴人の名誉ないし名誉感情が毀損されたとしても、控訴人らには被控訴人に対し加害の意思がないのであるから、被控訴人を直接その対象とする場合とは別異に扱われるべきである。

被控訴人が提起した訴訟であるから、記事の表現が被控訴人その人に及ぶのは避けられないが、それは波及的にそうなるに過ぎない。しかも、被控訴人自身も、ロス疑惑事件の被告人として無罪を主張して法廷闘争をする一方、被控訴人に対する新聞、雑誌、テレビ等のマス・メディアの報道について、名誉、プライバシーの侵害ありとして司法の救済を求め、本件記事報道時においても、その提訴件数は二十件を超え、引続き提訴しようとしている。被控訴人の右行為は社会の利害にかかる事実(社会の関心事)というべきである。

ロ  被控訴人は、本件記事が被控訴人の名誉を毀損すべき主要部分として、次の各点を指摘した。すなわち、別紙記事のうち表第二段落の四行目から五行目の「目立ちたがり屋の三浦和義のことだから」(以下「1の記述」という。)、同一三行目から一四行目の「ミスター三浦は、いまや告訴魔なのだ」(以下「2の記述」という。)、同第三段落三行目から八行目の「差入れの新聞・雑誌で気に入らない記事を見つけては、かたっぱしからマスコミ相手に訴訟を起こしているらしい。」(以下「3の記述」という。)、裏第一段落「自転車訴訟」のタイトルを含めて一二行目から一三行目の「乱発しているんだから、乱発と書いてどこが悪いんだ」(以下「4の記述」という。)、同末行の「あのミスター三浦」から第二段落七行目の「じゃないか。」まで(以下「5の記述」という。)、同第三段落一六行目から一七行目の「弱者かどうかはともかく、まともな神経の持ち主でないことは確かだよ」(以下「6の記述」という。)、同一九行目から末行の「ミスター三浦のような人物は正常人と狂人の中間タイプで、一番手に負えないそうだ。」(以下「7の記述」という。)、同第四段落八行目から九行目の「要するに、自己顕示欲のかたまりなのさ」(以下「8の記述」という。)、同一一行目以下の記述(以下「9の記述」という。)の九点である。このうち、3の記述は、一部事実の報道を含むものの、それ以外はすべて論評記事である。

それらは、すべて、被控訴人が提起した名誉毀損並びにプライバシー侵害を請求原因とする民事訴訟にかかる被控訴人の態度についての事実の報道並びに批判であって、被控訴人の個人攻撃でないことは、記事の構成、内容から明白である。その報道目的が、専ら公益を図るに出たことも明らかである。

ハ  被控訴人がその名誉を毀損したものとして指摘した記事の部分のうち、3の記述については、当時の出版物のうちにも被控訴人が多くの雑誌社などを相手に提訴したことが現れており、その件数は増加の一途を辿っているばかりか、被控訴人自身も、なお訴訟提起を継続するとの意思を表明していたのであるから、事実に基づく報道ということができる。その事実は真実であるか、控訴人においてそれを真実と信ずべき相当の理由がある。

その余の論評部分については次のとおりに考えるべきである。

1の記述と8の記述とは同義であり、いずれも被控訴人のテレビ出演や雑誌上の告白記事掲載の事実に支えられ、これに基づいて論評を行ったものであり、公正な論評である。

2の記述と4の記述とは、同義である。被控訴人の提訴件数が極めて多いこと、被控訴人に関する報道がしばしば事件報道ではなく芸能感覚でなされたこと、これに対する被控訴人の対応も自己顕示的であり特異であったことなどの事情を踏まえた論評であり、公正さを失っていない。乱発が必ずしも違法を意味するわけではないのであるから、訴訟を多発する被控訴人の行為を乱発と論評することは、一つの立場として許されるべきである。

5、6、7の記述は、本件記事が被控訴人の社会的評価の低下をもたらすことがないとする論評部分であり、前記「夕刊フジ」訴訟の第二審判決が「被控訴人の社会的評価の低下をもたらすもの」としているのに対応する。すなわち右判決を批評するためには避けてとおることのできない部分である。従って、論評の対象が判決であるところから、その公共性、公益性の要件は充足する。5の記述のうち被控訴人の経歴に関わる部分は、被控訴人も認めている事実であるし、被控訴人の人格にかかわる部分も、報道等により知られる被控訴人の行状から明らかである。6及び7の各記述も、当時の報道内容から明らかな被控訴人の奇矯な行動を論評したものである。

9の記述は、被控訴人の訴訟乱発の動機目的についての解説並びに論評である。

これらの論評部分は、たとえ主観的であり相対的(一面的)であり、その用語、表現が激しく辛辣であっても、一つの観点からの論評として許容されるべきである。民主社会においては、被控訴人の主張するごとく提訴の権利があり、無罪の推定を受け、その旨の主張がなし得るとともに、報道に従事する者が、把握した具体的事実に基づいてこれを批判することは、許容されるばかりではなく、むしろ社会正義実現のために要請される。

ニ  よって、本件記事は、公共の利害に関する事実の報道及び同事実に基づく論評であり、その目的が専ら公益を図る場合に該当する。しかも、右の事実は真実であるか、そうでなくともそれが真実であると信ずるにつき相当の理由があり、論評に当たる部分は公正性を有するものであるから、本件記事を発表した行為には違法性も有責性もない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一当裁判所は、被控訴人の本訴請求は理由がないものと判断する。その理由は次のとおりである。

1  本件記事が、被控訴人の社会的評価を低下させ、被控訴人の名誉を毀損する表現を含むことは否定できないところである。ことに、本件記事のうち、5ないし9の記述は、「感化院送りのワル」、「ウソつきでしたたかで泣き虫という特異な人間性の主」、「まともな神経の持主ではない」、「正常人と狂人の中間タイプ」、「自己顕示欲のかたまり」、「シャバにいたときは奇矯な行動がいくらでもとれたが…いうなれば自転車訴訟だ」というものであり、居合せた記者の発言という形を借りたものとはいえ、いかにもどぎつい表現である。大衆的な週刊誌であり、読者の興味をひくための言い回しであるにしても、いささか品位に欠けるといわれても止むを得ないであろう。

2  控訴人らは、本件記事が発表された当時、被控訴人の社会的評価は、全体的にいえば消極的な評価でしかなかったから、本件記事によりさらにその社会的評価が低下するものではないと主張する。

しかし、どのような人でも、極端な例を挙げれば、極悪非道な犯罪で有罪判決が確定している人でも、人として尊重されるべき一定の社会的評価を有しているというべきであるから、その人に向かって何を言ってもよいなどといえるはずはない。特定の人を対象にして、その人の態度や性格などに関する消極的な事実を重ねて指摘し、あるいは暗示して、多数の人々に流布させることは、たとえその人について既に芳しからぬ評判が立っている場合であっても、さらにその社会的評価を低下させることになることは明らかである。社会から受ける評価が低いとの点は、名誉毀損に対する賠償額の認定、判断に際して斟酌されるに止まるというべきである。

3  しかしながら、本件記事は、単に被控訴人を非難する俗悪な記事でないこともまた明らかである。

本件記事は次のような構成となっている。先ず、表第一段落から第三段落中程までが導入部となっており、第三段落後半からの「星取表」との小見出しを付けた部分で、被控訴人が提起した名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟が多数係属したこと、並びにその結果被控訴人の勝訴に終わるものが多数であることなど、主として事実経過を記載している。そして、同裏第一段落の「自転車訴訟」の小見出しを付けた部分で、被控訴人の株式会社産業経済新聞社発行の夕刊フジに掲載された記事による名誉毀損を理由とする損害賠償請求訴訟の第二審判決が、第一審と同じく、「訴訟乱発」との見出しを用いた点をとがめて記事が名誉毀損に該当するとした判断に疑問を呈し、その論拠とする形で、被控訴人の人柄に触れ、被控訴人には、「訴訟乱発」との表現により侵害されるべき名誉、すなわちプラスの社会的評価は存在しないのではないかとの疑問ないし見解を披瀝している。記事の最後は、被控訴人の人柄から推し量るのに、このように多数の訴訟を提起するのは、その勝敗は暫く措き、被控訴人が常に社会の注目を集めなければ気の済まない人であり、収容中の身であって見れば、他にこれを達する手段にも不足し、止むを得ず次々と訴訟を提起するのであろうとの意見で結ばれている。

すなわち、本件記事は、その表現からみてやや冷静さを欠き、興味本位に書かれたといわれても仕方がない部分もあるけれども、全体としてみると、被控訴人の提起する訴訟の多くが、その勝訴の結果となっているとの客観的な記述とあいまって、それら判決のうちの一つを取り上げることによって、現になされた多くの民事裁判に関する批判の文章となっていると読むことができる。その批判が当を得ているか否かは別として、裁判に興味を持ち、論評の対象とすることは、ことがらが公共の利害に関するものであり、公益をはかる目的に出たものといえるから、民事上の責任の有無を判断するにあたってもこのことを配慮すべきである。

4  被控訴人が、控訴人らの主張2ロのとおりの各点を取上げて本件記事がその名誉を毀損するものであると主張していることは、その請求の原因からみて明らかであるから、これらの点を中心に、以下に本件記事の右の性格を念頭において検討する。

1の記述には、「目立ちたがり屋」との表現があるが、既に被控訴人自身、自分の性格を説明する際にこの用語を用いていると認められること(〈書証番号略〉)に照すと、これが被控訴人の名誉を毀損するものとはいい難い。

2、3の記述も週刊誌出版社及び記者としての控訴人らの、一つ残らず訴訟となるのではないかとの危惧を表わしたものと見る余地もあって、表現にいささか俗なところはあるとしても、これだけで被控訴人の名誉を毀損するほどの行為であるとは認められないし、被控訴人が次々と訴訟を提起していることは、被控訴人も別に争っていない。

4の記述は、本件記事が特定している前記夕刊フジ訴訟の第二審判決に対する率直な疑問として理解することができ、これまた被控訴人の名誉毀損にあたるということはできない(「乱発」とみるかどうかは評価の仕方であり、「乱発」という表現をとがめた判決に対する批判として止むを得ない表現である。)。

5、6及び7の各記述は、既に社会的評価の下がっている人物に対して、更にその評価を下げることができるのか、との論評を主眼とするとはいえ、被控訴人に向けられた非難を含み、それもまた本件記事の一つの目的とする記述であると見られても仕方がなく、冒頭に判示したとおり、被控訴人の社会的評価を低下させるものであることは否定できないところである。しかし、被控訴人が、昭和六二年八月七日に殺人未遂被告事件について有罪の実刑判決を受けたことは争いがなく、右の判決は、量刑の事情として、被害者との間には娘がおり、殺害の目的は保険金の不正取得であったこと、被控訴人は、捜査公判を通じてその時々に応じて供述内容が違っていて、それ自体不自然不合理で到底信用することのできない弁解をしては自己の刑事責任を免れようとするなど、反省悔悟の情が窺えないことなどを指摘していたことが認められ(〈書証番号略〉)、また、右の刑事事件の判決が広く報道されたこと、他方で被控訴人は、従前から、当該刑事事件で被害者となった女性に対する愛情あふれる態度を世人に明らかにしていたことは当裁判所に顕著である。

厳密な法律論からいえば、有罪の判決が確定するまでは、犯罪者扱いをしてはならないし、有罪判決が確定しても民事の裁判を直接拘束するものではない。しかし、一審の有罪判決があった以上は、世間一般の人は、裁判所の判決を信用するのは当然のことであるし、同じ裁判所でありながら、一方で被控訴人に対し実刑判決を言渡し、その中で、被控訴人の人格を厳しく非難する指摘があるのに、他方で、被控訴人の提起する名誉毀損を原因とする民事訴訟の多くが被控訴人の勝訴に終っていることを奇異に感ずるとしても、それは無理からぬところであり、週刊誌のコラムの筆者としてこうした考えを率直に表明したことを責めることはできない。本件記事の表題である「三浦和義の社会的評価」は、その批判の気持を素直に表わしたものと見ることができる。被控訴人の少年時代の行状を取り上げたことが相当であったかについては批判する向きもあるかも知れないが、これも先の刑事事件の判決中に明確に記載されていることであり、また被控訴人自身もこれを公表していたと認められるのである(〈書証番号略〉)。

8及び9の記述内容は、被控訴人が名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を数多く提起している事実から当然に導かれるものではなく、いささか断定的な表現に過ぎる面もあるが、これも、人格に基づく特異な行動と見るのが相当ではないかとの意見を述べたものであって、論評の域を超えたものとまではいえない。

以上検討してきたところからすれば、本件記事には、被控訴人自身の人格、態度に対する批判、非難となっている部分もあり、その表現は客観的かつ冷静なものというにはいささか難があるものの、雑誌の性格からいってある程度止むを得ないところがあると認められ、全体として観察すれば、裁判批判の論評ということができるし、他方で、被控訴人に対して一審の有罪判決があり、被控訴人の過去の行動や人格について触れる部分も、それを真実と考えたとしても、控訴人を責めることはできないと認められる上、本件記事を読む読者の側においても、執筆者の意図を知ることはできたというべきである。

いくつかの点においてどぎつい表現があり、軽率な点がないではないけれども、主題の公共性と読者のこの主題に関する受け取り方を考えると、控訴人らが本件記事を執筆、掲載したことが違法かつ有責な行為であるとするのは相当でない。

控訴人らの主張はこの点において理由がある。

二よって、被控訴人の請求は理由がなく、棄却すべきところ、これと結論を異にし、被控訴人の請求の一部を認容した原判決は失当であり、本件控訴は理由があるから、原判決中控訴人敗訴部分を取り消し、訴訟費用の負担について民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官上谷清 裁判官滿田明彦 裁判官曽我大三郎)

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